今日まで…そして明日から…<第5回>

 今日まで…そして明日から…<5回目>

 以前から自分のこれまでの歩みや考え方をまとめようと思っていました。今回新型コロナウイルス感染防止大会のため「自粛」となり、「全国大会開催」の思い出や「市内大会完全制覇」のまとめをしました。「緊急事態宣言」が発令されて益々困難な事態となりました。仕事も休止となり、バドミントンも出来ません。しかし、明日を信じて前に進みましょう!
信じたいために疑い続ける

「川崎ジュニアバドミントンクラブ」やその他の「教育活動」をするための自分の考え方をまとめる時間にしました。つたない考えではありますが、参加していただける方の参考になればと思いお伝えします。

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※夢見が崎動物公園のサクラ。
テーマは…
その1:<生い立ち>
その2:<生徒に寄り添う!>
その3:<体育の先生への偏見~体育嫌いの思い>
その4:<コミュニケーション能力の向上>
その5:<着火点を見逃さない>
その6:<人と接する、協力する>
その7:<体験させることを増やす>
その8:<大学に行けたのは…>
その9:<他の方の考えを聞いて、自分の考えを作る>
その10:<赴任させていただいた学校で(1)(2)>
その11:<子どもにとって一番大切なのは、味方になってくれる大人がいる事>
その12:<名言!迷言?事件!>
つづく…
毎回2話程度を投稿していきます。
その10(2)は次回に掲載します。by組長
その9:<他の方の考えを聞いて、自分の考えを作る>
 新任の教員として務め始めて何もかもが新鮮でした。学級経営、生徒指導、教科指導、部活動指導…大学や教育実習、塾教師の経験などしてきましたが、そんな物では対応できない現実がそこにはありました。数学の指導は出来ると思ったのですが、教材に関する考え方が何もなかったので、ただ解き方を指導するだけの「伝達指導」になってしまい、自分でもつまらない内容でした。今のような初任者研修はなく、校内での研修が主で、校外では夏休みに向ヶ丘遊園にあった松下体育館の研修施設で1泊2日の宿泊研修会がありました。
初任の頃
  数学科の先輩教員の授業を見させていただいたり、地区の研究授業に出張させていただき様々な授業形態を体験しました。一斉授業だけでなく、班活動を取り入れた授業、教材を作ったり動かしたりする操作活動を扱う指導、生徒の意見をつなげて進める授業…とてもためになりました。最初は「新任のあなたが研究授業に行っても何も意見言えないだろう?」と言われてなかなか出張させてもらえなかったですが、魅力的な授業ばかりだったのでお願いして進んで参加しました。
くみ子
 自分自身が中学生の時に数学が分からなかった生徒だったので、分かりにくい表現はやめて生活に即した内容や、少ない知識で解決する方法を開発していきました。「√56=2√14」を「五郎、バレンタイン」「ハートの法則、片思いは諦める」「(χ+a)(χ-a)=χ2-a2」は「はげの公式」「組子の問題」「合雀ゲーム」「式雀」「2次雀」…よく教材研究をしました。

 バドミントン部の全国大会に出場する前に、20代半ばに埼玉県で行われた「全国算数・数学科研究大会」に神奈川県代表として全国デビューしました。自分の発表した内容は「若気の至り」で大したことは無かったのですが、他県の発表はそれは刺激的でした。意見の交換もできました。理科大学の同窓で埼玉県の中学教員となった仲間との再会もありました。他の方の考えを聞いて、自分の考えが固まってくるのです。

それ以降、自分に出版社から「原稿依頼」が毎月のようにありました。喜んで自分の考えや実践してきたことを発表していきました。川崎市の「数学科学校研究指定」を幸運にも2回受けることができました。その都度、指導主事の先生や研究会長の校長先生に授業を見ていただき、研修することができました。本発表の研究授業で1回目に行ったのはビデオを使った「一次関数の授業」でした。ゴリラが縄伝いに動き、何秒後にどこまでいくかの予測の授業を行い、様々な解決方法を生徒に発見させる手法でした。この授業を参観していただいた方が、その後何年も経った2回目の研究での発表会の時にもきていただき「ゴリラの授業は楽しかった!」と話していただいたのが嬉しかったです。2回目はまだパソコンが普及していなかった時期に「コンピューターグラフィック」を使った「円周角の定理の逆」の授業を行いました。所属校にパソコンが得意な音楽の先生がいて作っていただきました。生徒に作業をさせてその結果を予測して理由を考え、確認する授業でした。色々な形態の授業に取り組めて良かったです。


 バドミントンの指導も同じでした。20代の時は何も分からず、自分が経験してきたことが全てだったので、それを踏襲する指導ばかりでした。今から考えると「非科学的な指導」ばかりでした。そんな時に先輩の先生方が毎週火曜日木曜日に「夜練習会」をしていると知りました。基礎打ちの仕方、フットワークの指導法、ステップ走、チャイナステップ…最新の指導法を学んでいた方がみんなに教えてくれる練習会でした。次の日の部活動指導にすぐに役立つ内容ばかりでした。毎週のように参加して、練習後の食事会にも進んで参加して情報を得てきました。そこで習った内容が今の自分の考えの基礎になっていると確信しています。とてもお世話になりました。 

 聞くこと・見ること・学習すること、
そこから自分が生まれる

その10:<赴任させていただいた学校で①> 
南河原~犬蔵~南加瀬まで
 教員採用試験には一発で受かりました。面接官の先生も知っていた先生で20分間の面接時間の多くがその当時の話になりました。良い時代でした。
1977年、最初に赴任した学校は幸区の「南河原中」でした。商店街のど真ん中にある学校です。正門がどこにあるのか分からず探したものです。「日々新たなれ」が教育目標で玄関に石碑がありました。女房とこの学校で出会い、1年間の短い間でしたが、お世話になりました。
 担任は2年6組、普通は新任は真ん中ぐらいのクラスに配置されて、左右のクラスの様子が見られるようにするものですが、しんがりのクラスでした。悪ガキ?が多数いてとても楽しい時間を過ごさせていただきました。ある時、掃除の時間、真面目にしない男子生徒がいて「しっかり掃除しなさい!」と言うと「分かった、来年ね!」ときました。若かったのでカチンときて「ふざけるな!」と一喝して押し問答になったことがありました。その生徒と30数年ぶりに定年の年に会うことができ、笑い話になりました。
最初の教え子との同窓会にて

 部活はバドミントン部を持たせていただいて、東北出身の先輩先生のもと、そのあり方を学ばさせていただきました。今は取り壊された「見付台体育館で県新人戦」があったことを覚えています。その当時の写真がありました。暗幕は開いているし、試合前でしょうかまだみんなジャージを着ています。

 1978年、2校目は新設の「犬蔵中」でした。実はその前に「平間中転勤」の話がありました。でも自分の出身校なので断りました。そこに行っていれば、また違う人生や人とのつながりができたのかもしれません。犬蔵は地元の強い希望があり、菅生中から分離独立して誕生した学校でした。 開校時は校舎以外になにも無い学校でした。体育館もなし、校庭はあるものの整地されていない状態。職員室もまだ無かったので図書室を代用に使っていました。そういえばチョークもありませんでした。
川崎市専門部長時代



市総体男子団体優勝!

 体育館がなくてもバドミントン部を作りました。最初に作らないと難しいと感じたからです。同じ年にできた「有馬中」は立派な体育館ができていて、羨ましかったです。生徒の書類を調べていたら、出身小学校の担任名に見たことがある名前を発見しました。そう、スケートを教えていただいた小5,6年生担任の先生でした。世の中狭いと感じたと同時に「そうだ体育館を借りよう」とお願いしました。自分が教員になったことを喜んでいただき、毎週土曜日の放課後と夏休みにお願いできました。
 一期生は1年生だけで、校舎のへこみに作ったコートでの練習と、毎日風に向かってシャトルを打つ「1人クリヤー」を練習していました。地区に親学校の「強豪菅生中」があったのでなかなか勝ち上がることができませんでしたが、1981年三期生男子ダブルスが県総体市予選で初優勝できました。それが自分自身としても教員生活初の優勝でした。翌年1982年には市総体で女子団体が初優勝しました。秋が2複3単になった年でした。
犬蔵中時代 市大会

部誌
1年間の指導が終わると「手作りのノック台」にその年の成績を書いたプレートを張っていきました。卒業期には「部誌」を1年生に作成させて活動のまとめにしました。今でもOB会で順番に朗読して当時を思い出しています。OB会では「毎日走った」「叱られた」「階段大変だった」とか毎回のように言われます。犬蔵には昭和が終わる1989まで30代を迎えるまでの12年間在籍させていただきました。市や県大会で10回優勝させてもらい、関東大会にも1回出場できました。

1985年県新人戦 ダブルス優勝!


 1989年、3校目は幸区の「南加瀬中」でした。もうこの時は市専門部長をしていたのですでに2名の顧問がいましたが混ぜていただきました。とても熱い気持ちを持った生徒が多かったです。生徒指導も毎日ありました。なかなか学校内ではうまく話しが通らないので、先輩にアドバイスをいただき、休日は校外に仲間の教員と一緒に連れ出しました。多摩川に釣りに行ったり、バーベキューしに観音崎まで行きました。「プロレス同好会」や「野球観戦会」を組織して国技館や横浜文体、まだあった川崎球場まで観に行って本音を聞き、学校での指導につなげました。
第25回全国中学校バドミントン大会開催


事務局にて
 翌年から県専門部長となり、出張も多いので大変でしたが珍しく3年間持ち上がれました。卒業式の朝、生徒がトイレに1人づつ先生方を呼びつけます。あわや「お礼参り?」いや違う「3年間迷惑をかけました、ありがとう。今日はまじめにやります」と言って花束をもらいました。その生徒も今は40半ば、いい親父になっていることと思います。

 バドミントン部では「松尾組」を作ってくれた教え子にこの学校で出会いました。後で聞いたことですが、シャトルを打つことが大好きで、当時は体育館にはアラームなかったので、前日に体育館の倉庫のクレセントを下げておいて、そこから進入して朝練は7時からなのに、午前4時過ぎから打っていたそうです。驚きました。この時期はこれまでの経験が徐々に結果に結びついてきた頃でもありました。

 部旗を作成しました。「絶対一本」サービスする時に必ず言っていた選手がいました。関東大会が1993年に神奈川県で開催することになり、先に紹介した「県専門部役員㊙強化練習会」が花開きました。その年の新人戦から市大会県大会と勝ち上がり、自分が作った「関東大会申込書」を自分も使うことができました。翌年から転勤するまで、連続で4年間関東大会に連続出場することができました。
1995年県総体個人戦優勝!

 川崎ジュニアバドミントンクラブでの強化練習会や宿泊練習会を開始できたのも、この時期に生徒だった教え子が指導者として戻ってきたり、現在使用させていただいている「第一ホテル」に勤務していた教え子がいて相談にのってもらいました。彼ら彼女らの協力があってこそ、今の活動が始まったといっても過言ではありません。また保護者会の存在も大きかったです。会長を決めて会計も委託して、合宿や遠征の度にお世話になりました。 1997年まで40才代を迎えるまで9年間在籍させていただきました。市や県大会で37回優勝させていただきました。関東大会にも4回、全国大会に1回出場できました。

北アルプス槍ヶ岳にて

第6回↓につづく…

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