今日まで…そして明日から…<2回目>
以前から自分のこれまでの歩みや考え方をまとめようと思っていました。今回新型コロナウイルス感染防止大会のため「自粛」となり、「全国大会開催」の思い出や「市内大会完全制覇」のまとめをしました。「緊急事態宣言」が発令されて益々困難な事態となりました。仕事も休止となり、バドミントンも出来ません。しかし、明日を信じて前に進みましょう!また会う日まで~
「川崎ジュニアバドミントンクラブ」やその他の「教育活動」をするための自分の考え方をまとめる時間にしました。つたない考えではありますが、
参加していただける方の参考になればと思いお伝えします。
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※水槽のほてい草。つつじが早くも咲きました。
テーマは…その1:<生い立ち>
その2:<生徒に寄り添う!>
その3:<体育の先生への偏見~体育嫌いの思い>
その4:<コミュニケーション能力の向上>
その5:<着火点を見逃さない>
その6:<人と接する、協力する>
その7:<体験させることを増やす>
その8:<大学に行けたのは…>
その9:<他の方の考えを聞いて、自分の考えを作る>
その10:<赴任させていただいた学校で(1)(2)>
その11:<子どもにとって一番大切なのは、味方になってくれる大人がいる事>
その12:<名言!迷言?事件!>
つづく…
毎回2話程度を投稿していきます。
その5,6は次回掲載します。by組長
その3:<体育の先生への偏見~体育嫌いの思い> 中学三年生 |
意を決した自分はバスケットのゴールの真下に行って、下からゴールしました!先生やみんなは大笑い!たいした見世物でした。バレーボールでも自分は前衛になってもアタックはなし、ブロック専門でした。体を動かすことは好きだったのですが、体育の授業は嫌いでした。なので部活動は温和しめの「化学部」に所属しました。毎週月水金理科室で遊びの実験三昧!その他の日の放課後は多摩川に行って、仲間とよくサッカーやドロケイ、釣り…していました。バドミントンなど正月以外はしたこともありませんでした。
高校の時には学科対抗の多摩川駅伝大会があり、一番長い区間を自分が走ることになりました。いや自分では希望していません。誰もいないので、嫌がらせ(?)で自分に回ってきました。今の中学の駅伝スタートである古市場~丸子橋、戻ってきて~多摩川大橋~再び古市場。距離にして12㎞ぐらい!当然ビリ。でも最後まで走りきりました。
よく叱られもしました。それも当時は凄まじかったです。風邪をひいて体育の授業を休ませてもらおうと、職員室に行くと「風邪ぐらい大丈夫!」と言われて、体操着は持ってませんと告げると、なんと「上半身裸で走れ!」と、従うしかないので走りました。そうしたら風邪が治るという始末!やられました。なのでなかなか体育の授業が好きになれませんでした。
大学の時は体育会の部活に入ったので、体育の授業が免除されました。やっと嫌だった体育授業がなくなりました。今の時代の体育授業を見ていると、種目も多くなり、技術の習得だけでない内容で羨ましくも思います。強制されて行うものでなく、その活動する理由、目的を知らせて行うことが大切と考えます。
昭和三十年代 |
地道に自分を鍛えていく姿勢が自分は好きです。
その4:<コミュニケーション能力の向上>
高校生の水泳の授業のことでした。泳ぐのもへたくそだったので「プールの授業」は大嫌いでした。でも体育科の先生に接するのも嫌いでしたので、なかなか「見学したい」と言いに行けない生徒でした。その日は体調が悪かったので、意を決して体育教官室に行きました。ノックして入ったのですが、先生はなんと教官室で着替え中でした。「こら!ノックして入らんか!」と怒鳴られました。その勢いに負けて何も言えずに教官室を後にしました。プールに入って熱を出して、翌日休む羽目になりました。そんな奥手な生徒でした。大人の人、自分より強そうな人、不良?、仲のよい友達以外…と接するのがとても不得手でした。
中学生一年生のある日のことでした。当然給食などはなく、みんな弁当持ちでしたが「購買部」なるものがあり、文房具や校章、名札等を売っていました。それから昼食のサンドイッチの注文ができました。その注文をまとめるのが日直の仕事でした。
その日は自分が係でしたが、申込み書を2時間目の終わりまでに提出しなければいけないのですが、うっかり忘れてしまい慌てて購買部にいきましたが、誰もいません。先生にも聞けなくてその場にクラスと注文数を書いてお金を包み、黙って置いてきてしまいました。誰にも話せず昼食の時間になりました。恐る恐る購買部に行きました。自分が置いていった包みに購買部のお姉さんが気づいて、追加注文してくれたとの事でした。パンをいただくときにその話をしてくれました。「お金を黙って置いてちゃダメよ!」ときつく叱られました。
また小学生のある晩、風呂が家になかったので近くの銭湯に通ってました。広い風呂はとても気持ちよかったです。しかし、体が大きかったので中学生に絡まれました。「上がったら待ってろよ!」と脅しの文句。逃げればよかったのに、それもできずに外の泥が溜まっている場所につれて行かれました。殴られはしませんでしたが、何と風呂に入ったばかりなのに、「泥の中に入れ!」の言葉。仕方なく入り家に帰りました。母親に「どぶに落ちたと」言い訳をする始末。なかなか本当のことを伝えられない子どもでした。
相手に伝えられないと、自分がとても損をする。自分の仲間も損をする。自分も親も不安な気持ちになる。そんなことが徐々に気づいてきました。高校二年生の2月に親父が突然亡くなり、進路が不透明になった時、工業の専門教科担任が親身になって相談にのってくれました。「親父の工場を継ぐ」は自分には荷が重く、年上の従業員を使うことなどできなくて、ましてや「他の職場に就職する」は何をすればよいか分からず終い。
高校時代作業服 |
大学生の時 |
教官室に通い分からない問題を聞きに行きました。でも当時工業高校からの進学は少なく、「うちの学校は就職専門だから、予備校に行きなさい」と来ました。子どもながら頭にきました。「この先生も解き方が分からないんだ」と決めつけ、教官室を後にして予備校に通い始めました。ここでも何度も質問しに行きました。とても丁寧に教えていただけました。自分はこのことがきっかけでコミュニケーションすることができるようになったと思います。
部活動指導やジュニアクラブの指導でも「コミュニケーション能力」のことを大切にしています。始めからはなかなか出来ないものです。
自分がその必要性を感じて身につけて欲しい能力です。
3回目↓につづく…by組長
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