今日まで…そして明日から…<第4回>

 今日まで…そして明日から…<4回目>

 以前から自分のこれまでの歩みや考え方をまとめようと思っていました。今回新型コロナウイルス感染防止大会のため「自粛」となり、「全国大会開催」の思い出や「市内大会完全制覇」のまとめをしました。「緊急事態宣言」が発令されて益々困難な事態となりました。仕事も休止となり、バドミントンも出来ません。しかし、明日を信じて前に進みましょう!
赤い花 白い花
咲いて揺れるだろうお陽さまのように


「川崎ジュニアバドミントンクラブ」やその他の「教育活動」をするための自分の考え方をまとめる時間にしました。つたない考えではありますが、

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参加していただける方の参考になればと思いお伝えします。

※芝桜とコデマリ、赤い花白い花。
テーマは…
その1:<生い立ち>
その2:<生徒に寄り添う!>
その3:<体育の先生への偏見~体育嫌いの思い>
その4:<コミュニケーション能力の向上>
その5:<着火点を見逃さない>
その6:<人と接する、協力する>
その7:<体験させることを増やす>
その8:<大学に行けたのは…>
その9:<他の方の考えを聞いて、自分の考えを作る>
その10:<赴任させていただいた学校で(1)(2)>
その11:<子どもにとって一番大切なのは、味方になってくれる大人がいる事>
その12:<名言!迷言?事件!>
つづく…
毎回2話程度を投稿していきます。
その9、10は次回掲載します。by組長
その7:<体験させることを増やす>
 少し基礎が出来てきて打てるようになると、よく遠征に出かけました。埼玉県、茨城県、千葉県、東京都の学校によく行かせていただきました。試合をすることも目的の一つですが、宿泊したり、遠くまで行き活動することを体験をすることが大切と考えました。自分は運転をしないので、理解を得て副顧問の先生や保護者、旅行好きの先生にも頼みました。電車で行くこともありましたが、安全に注意してバスやワゴン車で 行くことを多くしました。長い時間同じ時間をともにすることで、お互いの理解が深まり、尚且つ楽しく行動できました。
ピカピカの一年生
 県大会や関東大会は必ず全員で応援しに行きました。埼玉県で行われた全日本Jrの試合もみんなで出かけました。レギュラーであるなしに関わらず、共通の時間を過ごすことが大切と考えました。目標にしていた大会に参加出来たことを、みんなで喜び合うことはとても嬉しいことでした。2013年夏、小田原で行われた県大会でも、管理職の理解があり、宿泊で参加させていただきました。勝って小田原城で喜びを爆発させたことは忘れられません。
小田原城前にて

全国大会開催の時も、YONEXにお願いして「コートマット」を搬送していただき、中学校の体育館に設置してそこで打ち、感触を体験させていただきました。その後、講習会の時には2階の体育館まで運んでいただいたり、全中開催20周年記念大会の時も、前日夜に搬送していただき大会を迎えることができました。バックラインがはっきり見えて、ストップもきき、これがバドミントンなんだと思いました。
 何事も体験してみることでその事の良さや悪さが分かるものです。大学生の時、部活の合間にバイトをしました。1年生の時は余裕が無くて大変でしたが、学費を稼がなくてならず、東京駅八重洲口の「デルモンテ」という喫茶店でウエーターを友達と2人でしました。高校生の時は喫茶店など行ったことがなかったので注文をとるのも大変でした。東京駅は関西の方も乗降されるので、ある日お客さんが「クールコーヒーお願いします」と来ました。「レイコー」のお客さんもいました。「クール」「レイコー」一瞬考えましたが「アイスコーヒー」とわかり大丈夫でした。後で聞いた話ですが、関西ではこう言うそうです。次の注文は「フラッペ」なんだ?分かりませんでした。厨房に行き聞きました。「フラッペ」って何ですか?なんと「かき氷」とのこと。メニューには無かったです。知らないとはいえ、なんとも不思議な響きでした。それから色々教えてもらいました。
「オジュー」「トマジュー」「レスカ」「オスカ」「アイミー」「タマサン」「ミーサン」「クリソ」…何だか分かりますか?
大学二年生
大学1年生の時に付き合っていた女友達の家に正月招かれました。「百人一首」をやることになりました。自分は高校で古典を習っていなかったので、「いろはカルタ」は知っているももの、上の句下の句で取る「百人一首」はやったことがありませんでした。しかし、彼女の前で恥をかくのもいやなので、「大丈夫!」と言って始めました。知らないということは仕方ないことです。一枚もとれません。赤っ恥でした。体験をすること、知っていることを増やすことの重要性を身にしみて感じた事件でした。

何事も体験すること、知識を増やすことが大事
                        それを伝えていきたい。そして知らないことは聞くことも大切

その8:<大学に行けたのは…>
 大学進学を決めた高二の時は何も分からずにいました。担任の先生に聞いて教員になるにはどの大学が良いか教えていただきました。工業高校からでは習っていないので、受験科目が3科目受験(数学・英語・理科)の私立大学にしか受験用意ができません。工業科で習った専門科目で受験できるとも聞きましたが、工学部の受験のみでした。
富士山登山
 そこで教わったのが「理科大」でした。1年目は見事に不合格!もう一校受験していてそちらには何と合格できました。しかし、その学校は寄付金が高く学費も高いので母親にお願いして一年間浪人させてもらいました。予備校に通う生活が始まりました。それまで教わったことのないことばかりで、教え方がまた上手く興味もわき、理解が深まりました。
 よく模擬テストを受けに行きました。他の予備校にも出向き「模擬テスト荒し」をしました。点数がよいと特典がありました。授業料が安くなったり、テスト代金が返金になったり、景品がもらえる学校もありました。
 そして受験!今年こそ受からなければならないと真剣でした。理科大の他に早稲田、中央、学習院、理学部数学科や教育学部数学科がある大学を選びました。最初に発表があるのが昨年落ちた「理科大」でした。当時の発表は大学構内に掲示でした。受験票を握りしめて見入りました。しかし、番号がありません。目の前が真っ暗になりました。最初に浮かんできたのは母親の顔でした。予備校の授業料を払ってもらったのに受からなかった。すまないと素直に思いました。そしてトボトボと家に帰りました…
 家に入る前に、隣のおばさんが呼びます!「ユーちゃん宛に速達、受け取ってあるよ」とのこと。当時はそういうことが出来たのでしょうか?なんと理科大学からの速達!開封してみると「補欠合格」の通知でした。飛び上がるようにして喜びました。
母親は涙を流して喜んでくれました。
 その後受験したすべての学校に合格しましたが、もちろん「理科大学進学」に決めました。卒業後教員になった時も一番喜んでくれたのは母親でした。母親が亡くなって実家を整理していたら、その「入学許可書と封筒」が実家に大切に保管されていました。さらに南河原中で最初に作った学級新聞やPTA新聞、中学校の通知表まででてきました。大学の成績証明書まで封筒に入れて大切に保管してありました。




 大学では部活動と学習、仲間とのふれあいの大切な時間でした。友人の下宿に泊まり込み青春を謳歌しました。母親には心配をかけました。安い酒を飲みながらギターを弾いて夜通し歌ったり、試験前には真面目に泊まり込んで学習して4年間で卒業できました。今でも同窓会が毎年夏前に行われています。

 就職して給料の一部を母親に毎月渡して生活費にしてもらいました。一浪させてもらったことと、大学の学費を出してもらったことへの恩返しと思いしてきました。いつも嬉しそうに受け取ってもらえました。しかし、遺品整理をしていたら銀行の通帳に手つかずの送金が残っていました。涙がでました。一人暮らしだった母親は3月の暖かい日に妹が実家を訪ねた時に倒れていて息絶えていたそうです。その電話をもらった時も自分は部活動中でした。死に目にも会えなかったのだから、もう部活を辞めようと思うと姉に告げました。姉は「あなたが先生していることをお母さんは自慢していたよ」と話してくれ、葬式の日に何人もの生徒・先生が弔問しにきてくれたことを「お母さんは喜んでいるよ」と涙ながらに伝えてくれました。また頑張ろうと思った瞬間でした。
常念岳山荘にて

今の自分があるのは間違いなく母親のお陰が一番です。
                                                  本当にありがとうございました。
第5回↓につづく…by組長

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