今日まで…そして明日から…<6回目>
以前から自分のこれまでの歩みや考え方をまとめようと思っていました。今回新型コロナウイルス感染防止大会のため「自粛」となり、「全国大会開催」の思い出や「市内大会完全制覇」のまとめをしました。「緊急事態宣言」が発令されて益々困難な事態となりました。仕事も休止となり、バドミントンも出来ません。しかし、明日を信じて前に進みましょう!「川崎ジュニアバドミントンクラブ」やその他の「教育活動」をするための自分の考え方をまとめる時間にしました。
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※幸区の木 ハナミズキ 街路樹になっています。
テーマは…
その1:<生い立ち>
その2:<生徒に寄り添う!>
その3:<体育の先生への偏見~体育嫌いの思い>
その4:<コミュニケーション能力の向上>
その5:<着火点を見逃さない>
その5:<着火点を見逃さない>
その6:<人と接する、協力する>
その7:<体験させることを増やす>
その8:<大学に行けたのは…>
その9:<他の方の考えを聞いて、自分の考えを作る>
その10:<赴任させていただいた学校で(1)(2)>
その11:<子どもにとって一番大切なのは、味方になってくれる大人がいる事>
その12:<名言!迷言?事件!>
つづく…
毎回2話程度を投稿していきます。
その12は次回掲載します。by組長
1年目は新入生は女子1名しか入部せずどうなることかと思いました。時間にも余裕ができたので、1997年11月に「第一回川崎市小学生バドミントン大会」を関係者のお陰で東橘中・子母口小で開催することができました。川崎市に小学生からバドミントンをしている選手がいることは前から知っていましたが、市内大会が開催されてはいませんでした。自分の娘も小5で川崎ジュニアで練習していたので開催に踏み切りました。今も使っている優勝カップはその時(株)YONEXから寄贈されたものです。
2年目に男子が入ってきました。小学生大会にも出場していましたが、体も小さく成績は残せていませんでした。その頃「松尾組」ができました。教え子が毎週のように指導しに来てくれて指導、試合をしてくれました。トレーニングも頑張り体ができてきました。3年目には男子の後輩も入部してきて一段と逞しく成長していきました。小学生の時代には成績が残せていない選手や、中学生始めの選手を鍛えて成長させるのが指導の楽しみになりました。
部旗は「下剋上」自分たちはまだ下だと思い、常に上を目指すこととしました。フォームを直し、無駄をなくす。ミスを少なく「オールロングショートアタック」通称「ロシア練習」を毎回のように行いました。2年生の夏、全日本Jr市県大会でシングルス優勝して群馬県前橋市で行われた本大会に出場!2回勝って、ベスト32。翌年の県総体も優勝し、関東大会で全国2位になった選手に決定戦で1-2で負けてたものの、ベスト8まで勝ち進めました。川崎ジュニアの宿泊練習会開催開始時期にもあたったので、活動が充実していきました。
その10:<赴任させていただいた学校で②>
中野島~渡田~平まで
1997年、4校目の学校は多摩区の「中野島中」でした。とても落ち着いた環境にあり、生徒もまじめな子ばかりでした。上履きを履きつぶしている生徒がいて、「君だけだよ」と言うと素直に直していました。学校の規模は大きかったものの、当時は部活動は盛んでなくサッカー部やバレーボール部、野球部…と切磋琢磨して毎日の活動をしていました。
奈良大仏殿にて |
第一回小学生大会 |
中野島修学旅行車中 |
数学授業 |
2001年冬の第7回宿泊練習会には2日目の宿泊場所が確保できず、宿泊して寝食を共にするという目的を達成することができなくなりました。相談をしたあげく「ホームステー合宿」という奇抜な案が保護者からでました。自分の家に帰るのではなく、交代して他の家に宿泊させていただくというものでした。保護者会がしっかりしていたので同意を得て実現できました。米を一合持参させて朝ご飯を作っていただき、お礼に玄関の掃除をしてくるようにしました。礼儀も合わせて学習できました。
道徳関東ブロック研究授業 |
学校にも理解をもらい、調理室で「カレーライス」を保護者に作っていただき美味しい、暖かい昼食をいただき、充実した宿泊練習会ができました。本当にお世話になりました。 2007年までの11年間、40代後半をこの学校で過ごさせていただきました。
最後の部活動で「お別れクリヤー」を全員と行い、涙がこぼれました。市や県大会で23回優勝させていただきました。関東大会にも3回、全国大会に3回出場できました。
最後の部活動で「お別れクリヤー」を全員と行い、涙がこぼれました。市や県大会で23回優勝させていただきました。関東大会にも3回、全国大会に3回出場できました。
2007年、5校目の学校は川崎区の「渡田中」でした。川崎区の学校に勤めたことが無かったので希望しました。渡田は自分が新任の時に「県大会男子団体6連覇」を果たした、憧れの学校でした。既に50才を迎えていたので、定年までここで頑張ろうと思い赴任しました。しかし、学校は大変でした。毎日生徒指導がありました。しかし、これまでの経験と仲間の先生方の協力もあり日々楽しく勤務させていただきました。
この学校でも1年目新入生は男子1名女子1名しか入部してきませんでした。新3年生のチームは前任の顧問が頑張って指導しくいただいたお陰で、市3位で県総体に出場できました。そこで部旗は「復活渡田!甦れ渡田伝説」にしました。そして外部指導者として渡田OBに方に入っていただきました。この事が部活動する上でどんなに助かったことかは計り知れません。本当にお世話になりました。
昔の渡田の勢いを取り戻す、ピンチに陥っても諦めずに復活することという意味を込めました。
昔の渡田の勢いを取り戻す、ピンチに陥っても諦めずに復活することという意味を込めました。
市総体32年ぶりの優勝! |
3年目までは県総体には出場するものの毎年一回戦負けでした。2009年夏優勝経験がある学校に一回戦始めて勝つことが出来ました。この一勝が大きかったです。今やっている練習を続ければ県大会でも勝てると、選手が気づいてくれました。実を結んだのが翌年2010年横浜市立大学で行われた県総体です。春季市大会を初優勝して、その勢いで県総体で一度も勝ったことがない藤沢の学校に2-1で勝ち、県大会準優勝することが出来ました。茨城県で開催された関東大会にも出場しました。
一度火がつくと止まりません。日々努力する姿を後輩は見ているので、次の年も、更に次もみんな頑張りました。強化リーグやオープン大会なども充実してきたので大会が多くなったこともありますが優勝回数や連覇が増えてきました。厳しく叱ってもついてくる選手を育てる、その上で生徒の気持ちを理解することに心がける、練習メニューの充実、体育館が長い時間使えること、強化練習会の開催、オーダーの研究…ができるようになりました。
県新人戦女子シングルス優勝 |
県総体女子シングルス優勝 |
はとバスで関東大会へGO |
しかし、やがて自分は定年を迎えます。56才まで学級担任、定年までの4年間は生徒指導担当をさせていただきました。部活動や学級担任として充実した指導ができるまでにはやはりかなりの時間が掛かります。毎年のように3年生を担当しました。定年を迎える時はまさにそんな時でした。
管理職に再任用で渡田に残りたいと告げると「来年度は1学年主任でお願いしたい」と言っていただけました。とても嬉しかったです。それでも4年後に転勤しなくてはならない時にはとても悩みました。涙で迎えた離任式でした。2017年まで11年間在籍させていただきました。市県大会で70回優勝できました。関東大会に6回、全国大会に5回出場できました。
2009年県選抜3位入賞! |
2017年、6校目最後になった学校は宮前区の「平中」になりました。校長先生が元バドミントン部顧問で面接での最初の言葉は「その際はお世話になりました」でした。バド部顧問の先生は女性でとても熱心でした。1日の練習が終わると職員室で反省会が始まりした。話し合いだけでなく、実技も伴いました。フットワークの基本から手投げの練習までしました。長いときは1時間余りに及びました。とても嬉しく感じました。自分がそうしてもらったように、今は経験してきたことを伝える時期なのだと思いました。
ジュニアクラブへの関心が選手になかな伝わらなかったのですが、ある女子選手が毎回参加してくれました。大会では強い選手に話しかけられなかった自分が、ここに参加して変わったと言ってくれました。そんな彼女から引退したときにメールをもらいました…
『平中学校での1年間、川崎ジュニアでの1年間、本当にありがとうございました。
😢先生のおかげで私は大きく成長することができました!特に、川崎ジュニアでは声が出ていないときに、自分から声を出して盛り上げようとしたり、強い人と仲良くなれて、技術面で負けている分、声だしやアップのランニングなどで勝てるよう必死になってできました!また、技術面だけでなく、人としても成長できたし、その成長が学校生活でも発揮することが出来ています!
何事も積極的に、一生懸命できるようになれたのは先生のおかげです。改めて言わせてください。たくさんの指導者さんや、たくさんの仲間と出逢うことが出来たのは、先生のおかげです!本当に先生に出逢うことができてよかったです!』
そんな生徒と巡り会った幸運を嬉しく思っています。
すべての巡り会いに感謝します!
まだまだ頑張りますので、ご支援お願いします。
第7回↓につづく…by組長
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