今日まで…そして明日から…<3回目>

 今日まで…そして明日から…<3回目>

 以前から自分のこれまでの歩みや考え方をまとめようと思っていました。今回新型コロナウイルス感染防止大会のため「自粛」となり、「全国大会開催」の思い出や「市内大会完全制覇」のまとめをしました。「緊急事態宣言」が発令されて益々困難な事態となりました。仕事も休止となり、バドミントンも出来ません。しかし、明日を信じて前に進みましょう!

見上げてごらん夜の星を
追いかけよう夢を












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「川崎ジュニアバドミントンクラブ」やその他の「教育活動」をするための自分の考え方をまとめる時間にしました。つたない考えではありますが、参加していただける方の参考になればと思いお伝えします。

※朝の散歩コース。チューリップも咲きました。
テーマは…
その1:<生い立ち>
その2:<生徒に寄り添う!>
その3:<体育の先生への偏見~体育嫌いの思い>
その4:<コミュニケーション能力の向上>
その5:<着火点を見逃さない>
その6:<人と接する、協力する>

その7:<体験させることを増やす>
その8:<大学に行けたのは…>
その9:<他の方の考えを聞いて、自分の考えを作る>
その10:<赴任させていただいた学校で(1)(2)>
その11:<子どもにとって一番大切なのは、味方になってくれる大人がいる事>
その12:<名言!迷言?事件!>

つづく…
毎回2話程度を投稿していきます。
その7,8は次回掲載します。by組長
その5:<着火点を見逃さない>
 生徒や選手がそれまでとは違うステージの上がる時を自分は「着火点」と呼んでいます。その瞬間はいつやってくるか分かりません。それを見逃さないようにしていました。
 数学科の教員をしていましたが、中学生の時は苦手な教科でした。成績も「3」でした。中3の時に展開の学習があり(χ+3)2の計算で当たり前のようにχ2+9として×でした。隣に座っていた仲間が丁寧に教えてくれても、分からなかったです。しかし、理科だけはできました。当時は入試に用いられる成績は「10段階評価」でしたが、「9」をもらえました。化学部にいるからだと仲間に言われ、何人かが3年生になってから入部してきました。でも数学は出来ませんでした。しかし、忘れはしないことがありました。

高校三年生
高校2年生の「電気一般」の授業でのことです。「キルヒホッフの法則」を習いました。閉じた回路での電流の量(I)を求めるために連立方程式を解かなければなりません。I1~I8まであれば未知数が8個あるので、8元1次連立方程式を解かなければなりません。とても難しかったです。
三歳七五三
しかし、すべての式を足すと解けることに気づき「解けた!」と大声で叫びました。みんなビックリして振り向きました。先生も「君が解けた?」と不信がちでしたが、近づいてきて「やったね!」「前に出て書きなさい」と誉めていただきました。嬉しさに手が震えてなかなか板書できません。
 席に戻りホットしていると。みんなの歓声と拍手が沸きあがりました。それが自分の数学にかんする「着火点」でした。それからは自然と興味が起こり、進んで学習するようになりました。それが数学科教員になったきっかけでした。
 毎日の授業で教室に入る時、今日はどの生徒の「着火点」を見つけられるかを常に考えていました。普段はつまらなそうにしている生徒が、顔をあげて興味を示してくれるその瞬間を見逃さないことを心がけていました。バドミントンの指導の時もそう思って選手を見ていました。
 自分は選手にすべてを教えません。例えば「バックハンド」ができていない選手を呼んで基本の打ち方を指導する場面では。「猫手にならないように」「サムアップ」「手首と肘の位置」を教えます。その後は教えません。1週間経って変化がない時は呼んで「直っていない!」と一喝して「誰に指導してもらった」と聞きます。多くの指導者が来てくれる環境があったので、自分から進んで習うことを大切にしていました。また1週間経って大して直ってなくても、その選手が指導者に習いにいている場面を見ているので、「少し良くなった」と呼んでアドバイスして、もう一度確認します。それがその選手の「着火点」になります。その瞬間から自信を持って、さらに自分から指導者に習いに行きます。その繰り返しで技術を身につけていくことができるようになるようにしました。

 選手の「着火点」それを見逃さない指導が大切です。

その6:<人と接する、協力をする>
 自分が通った高校はとてもバンカラで昭和の時代の香りがした学校でした。入学式が終わり、学活も終了して帰宅できると思ったら、担任が退室して代わりに「竹刀」「角材」などを持って先輩が入ってきました。機械科の3年生でした。(※給食センターに勤めたらその先輩の一人に会いました)代々歴史がありこの場で新入生への「校歌指導」があるとのことでした。それが先輩方に任されていました。校歌を先輩が一回歌ってくれました。歌詞は生徒手帳が配布されていたので分かりましたが、一回ではなかなか覚えられません。しかし、「声が小さい!」竹刀で床を叩く「バチ~!」恐怖が襲います。それが終わると今度は「自己紹介」椅子の上に立って名前、出身中学などを大声で言わなければなりません。自分は大きな体だったのと、出身中学の先輩がいたので簡単に終われましたが、大変な子もいました。その子は次の日に退学してしまいました。余程嫌だったのだと思います。後で聞いた話で本当は普通科の高校へ進学したかったそうで、仕方なく工業高校に入ってきたと言ってました。
八ヶ岳権現岳山頂にて

 時は巡り…自分たちが先輩になった時、歴史は繰り返される。これを避けたかった。悪しき伝統はなくしていく心に決めました。その時、自分は機械科の総代委員長でした。「みんなが嫌だった校歌・自己紹介はやめよう!」とクラスに提案しました。「仕返しだ!」とか「自分たちがされたんだからやろう!」とか意見が出ました。喧嘩になりそうな雰囲気でした。「でも無意味なことは辞めよう」という意見も多く出てきました。人と接して、協力して物事を良い方向に向かわせる大切さを学びました。
                                   結果は…残念ながら歴史は繰り返されました。

 県専門部長を任された1992年(平成4年)~1995年(平成7年)は先に書いたように関東大会、全国大会、新人戦一本化、県合宿・県選抜の開始など沢山の課題がありました。その都度副部長・会計・書記・強化部長と相談協議を重ねました。部会も各ブロックの学校で順番に行いました。各ブロック大会にも時間を作って自分が出向き、自分の考えを「伝える旅」をしました。飲み会も多くしていました。歌がうまい方がいて、よくカラオケにも行きました。おかげで流行の歌をよく覚えました。その歌手が歌う姿を見ていないのに歌は知っていました。当時は専門部の学校が弱く、大会運営をしているだけで自校の選手の出場はなしの年もありました。
 川崎市専門部長を引き受けるときに、当時の校長先生に告げると「専門部長は強いチームを作らなければ、そうでないと意見が通らない」「優勝できるか?」と言われました。「ハイ大丈夫です!頑張ります」と告げて放課後に選手に伝えました。「次の大会優勝するぞ!」選手も「ハイ!」そんなことがありました。その年男子チームは市総体優勝しました。
市総体男子団体優勝!


いかしたサングラス姿

県部長の時も同じ状況でした。まだ県総体で優勝したことはなく、そのまま関東大会を迎えることになりました。そこで、相談して「県専門部役員㊙強化練習会」を開催しました。5名の方が賛同してくれて、月に4回~5回毎週のように各学校で1日ローテーションで体育館を確保してメーカーや小売店の方を招いて練習会を行いました。徐々に力をつけていって、1993年(平成5年)の関東大会に男子団体県3位、男子シングルス準優勝となり自分の学校を出場させることができました。翌年には男子団体優勝、さらに2連覇と続いていきました。一緒に参加した横浜の学校も関東大会・全国大会に出場することができるまで成長して行きました。
白馬にて三〇代の頃


松尾組51番と!

人と接し、協力することで可能なことが増えていく。
                                                        それを実感した経験でした
4回目↓につづく…by組長

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