2020年4月13日月曜日

今日まで…そして明日から…

今日まで…そして明日から…<1回目>最新15回目投稿中!

 以前から自分のこれまでの歩みや考え方をまとめようと思っていました。今回新型コロナウイルス感染防止大会のため「自粛」となり、「全国大会開催」の思い出や「市内大会完全制覇」のまとめをしました。「緊急事態宣言」が発令されて益々困難な事態となりました。仕事も休止となり、バドミントンも出来ません。しかし、明日を信じて前に進みましょう!
明日からも、こうして生きていく


「川崎ジュニアバドミントンクラブ」やその他の「教育活動」をするための自分の考え方をまとめる時間にしました。つたない考えではありますが、

参加していただける方の参考になればと思いお伝えします。

※今年もエンドウ豆を植えました。花が咲きました。メダカを飼っています。
テーマは…
その1:<生い立ち>
その2:<生徒に寄り添う!>

その3:<体育の先生への偏見~体育嫌いの思い>
その4:<コミュニケーション能力の向上>
その5:<着火点を見逃さない>
その6:<人と接する、協力する>
その7:<体験させることを増やす>
その8:<大学に行けたのは…>
その9:<他の方の考えを聞いて、自分の考えを作る>
その10:<赴任させていただいた学校で(1)(2)>
その11:<子どもにとって一番大切なのは、味方になってくれる大人がいる事>
その12:<名言!迷言?事件!>

つづく…
毎回2話程度を投稿していきます。
その3,4は次回に投稿掲載します。by組長

その1:<生い立ち>
 1954年3月東京都大田区馬込で3550㌘で生まれました。1歳ぐらいの時に川崎市幸区古市場に転居してきました。川崎市立古市場小学校を経て平間中学校に進学しました。卒業後親父が工場の社長をしていたので継ぐために、迷わず県立川崎工業高校機械科に進学しました。中学校でも高校でもバドミントンはしていませんでした。1年浪人して私立東京理科大学理学部数学科に進学できました。
一歳のとき
一瞬迷って、それでもバドミントン部に入部、それも体育会部活。4年で卒業でき、教員採用試験にも一発で合格して、幸区の南河原中に1977年(昭和52年)4月に数学科の教員として採用されました。バドミントン部の第2顧問となりました。結婚して翌年(1978年)新設校の犬蔵中に転勤。体育館がないのにバドミントン部を立ち上げ第一顧問になりました。昭和が終わる1989年(昭和64年)まで12年間働かせていただきました。1988年から1991年まで川崎市中体連バドミントン部専門部長を務めさせていただきました。
 1989年(平成元年)に南加瀬中に転勤。1992年には県専門部長となり、全国大会を1995年に開催して退任させていただきました。1997年(平成9年)に中野島中に転勤。2007年(平成19年)には川崎区の渡田中に転勤。2014年に定年退職。再任用で4年間働き、最後は平中で40年の教員生活を終えて
ほぼ現在
2018年に退任しました。
 現在は 川崎市学校給食センターで働いています。その時ごとに様々なことがあり、そこで学んだことや経験してきたことが、今の自分の下地になっていると思います。これらの話を書いておきたいと思います。
                                                   
その2:<生徒に寄り添う!>
 小学校6年ですでに身長が170㎝ありました。体が大きい反面、運動はだめで鉄棒も跳び箱もへたくそでした。中学3年生の体育の成績も相対評価5段階評価で「2」の有様!自分は運動が不得意な生徒でした。そんな小学5,6年生の時、担任の先生がよく見てくれました。先生の下宿が鹿島田にあったので、よく上がり込んでいました。逆上がりが出来ないときは放課後につきっきりで教えていただきました。何度も挑戦しても出来ない自分を諦めずに見ていただきました。そして、休日の時などに自分たち生徒を「スケート」に連れていってくれました。スケートは先生が好きだったのだと思います。当時「スケート場」は東神奈川と川崎、今のチネチッタの場所にミスタウンという夏はプール、冬場はスケートができる施設がありました。

小五箱根にて
中3修学旅行時
何度も行くようになり、始めは手すりから離れられなくて滑れませんでしたが、先生に手を引いてもらい徐々に滑れるようになりました。先生の滑る姿が格好良く、少し出来ると嬉しくて、次々に技術を学んで習得していきました。エッジでストップ、バック走、フィギュアからホッケー、スピードの靴と進んで行きました。そうなるともう、先生が連れていってくれるのを待たないで、自分たち仲間だけでよく行ったものです。昼食は川崎駅の駅ビルに安いカレーショップがありみんなで食べました。一つのことに興味を持ち、自分から進んで取り組むようになり、それが出来るようになると自信がつきます。そんな指導法をこのとき学ばさせていただいたのかと思います。

 大学生の時も寄り添ってくれた先輩がいました。自分は中学校教員になろうと思い、理科大学に入学しました。専門の数学は授業を頑張ればなんとかなると思いました。しかし、中学には部活動があります。何か経験しなくてはと思い、高校の時に友人がやっていて1、2度した「バドミントン部」にするか、ギターが好きだったので「ギター部」にするか一瞬迷って、次の瞬間「バドミントン部」にしました。
 本格的な部活はしてなかったので「同好会」「体育会」の区別も知りませんでした。自分が入ったのは「体育会」でした。後で考えるとそれしかなかったのです。練習は春合宿から厳しかったです。7泊8日の合宿。その前に1週間の強化練習でした。長距離も自分は不得意だったので、神楽坂のランニングはきつかったです。最後に逢坂 (大坂、美男坂)(←場所)の急坂があり、それは大変でした。でもいつも数学科の一つ上の先輩が声をかけてくれたり、併走してもらいました。見捨てずに仲間として扱ってもらえました。その結果いつしか自分も速くなり、自主トレを多摩川でするようにもなれました。
 しかし1年生の春合宿では最終日の朝10㎞ランニングで熱中症で倒れ、熱けいれん!救急車搬送でした。先輩にはなんで最終日に倒れるんだと言われました。打ち上げで飲めないぞ?と言われました。でも、辞めないで4年間続けました。
渡田中時代


指導者は選手にヒントを与え、
次は選手自らが行動できるようにする
                                                        の基になったと思います。
2回目につづく↓…ページ掲載に変更しました。