全国大会開催のために各都県に依頼して何回も練習試合を行いました。当然、下級生も参加しているので、同じ刺激を受けて成長していきました。自分が所属していた南加瀬中もその恩恵を受けていました。…成し遂げたのは
当時はいろいろなオープン大会が開催されていました。「伊勢原オープン」「愛川オープン」「綾瀬オープン」「相模原オープン」「平塚オープン」…多数ありました。現在も行われている大会もあります。委員長だったこともあり、挨拶を兼ねてそのすべてに参加していました。
県強化リーグもポイントがあれば、Bチームんも参加が認められていたので、下級生も参加でき、経験値が増えました。
市内では川崎市バドミントン協会の主催で「ダブルス大会」が新人戦前に開催されていました。現在の小中学生大会の前身です。全国大会が「1複2単」から「2複1単」に変更されて、ダブルス強化が急がれていました。優勝者には(株)YONEXから黄金のシャトルが提供されました。
目的ある練習と試合経験が実力を向上させます。
<回想2>
自分のチームは全中の年、関東大会は惜しくもベスト8にとどまりましたが、開催地枠で男子シングルス・ダブルスで大会に出場できました。ダブルスが全国一勝をあげました。全国大会の開催地枠は団体1、シングルス2、ダブルス1でした。会議で団体個人は川崎市1位の団体個人、シングルスは県1位も出場と決定していました。
実はこの年にまず「市大会完全制覇」をねらっていました。前年も男子団体・S・D優勝、女子団体準優勝、市総体も男子優勝、女子準優勝していて「4冠優勝」していました。県総体も男子団体個人シングルスが優勝できた年でした。全中の年も市総体男子優勝、女子準優勝で「3冠優勝」でした。県総体は男子団体二連覇することもできました。
大会結果は嬉しくもあり、悔しさも十分にありました。自分が作り上げている大会に、自分の所属選手を出したかった。自分が作った「申込書」を自分で使いたかった。そんな気持ちに満ちあふれていました。夢を追い続ける姿勢を崩さないことが大切です。
そんな姿を後輩が見ていました。よく聞きますが、今年はメンバーが良いので優勝できたとか、今年はお休みなどと…自分はそれが嫌いでした。メンバーの良し悪しではなく、練習の質を上げて選手強化を図ることが大切と考えています。
公立高校ですから転勤はつきものです。長く同じ学校に入れても限度があります。選手の頑張りがあり、中学校始めの選手を主に育成して、複数年在籍した学校すべて(4校)を関東大会に出場させることができました。転勤する年にあたってしまった選手も多く関東大会に出場できました。
さて、全中の次の年1996年は…
<回想3>
まず年の始めに行われた「川崎市新人大会」は男子ダブルス:優勝、女子ダブルス:優勝、男子シングルス:準優勝、女子シングルス:第3位で、まだ「二冠優勝」止まり。
県大会では男子シングルス:第3位、男子ダブルス:準優勝と頑張りました。
その後、敗戦原因を考え、練習で補強し、敗れた選手の所属する学校に毎月のように練習試合をお願いし、川崎ジュニアや県外遠征で強い選手、指導者との対戦を積み重ねました。
<回想4>
そして迎えた県総体市予選になりました。結果は男女団体戦:優勝、男女個人戦シングルス、ダブルス:優勝「六冠優勝!」をみごと成し遂げました。市内大会とは言えど初のことでした。
特筆することは2点あります。決勝での失点の少なさ、ダブルスの充実でした。まだ「サービスオーバー」がある時代でした。その得点は今回教え子が「大会報告書」を大切に保管してくれていて、自分に見せてくれ判明しました。まだデジカメが無い時代でしたが、報告書は毎回発行していました。
BTは2-0 優勝
男子団体準優勝
最後に秋の市総体が残りました。川崎市は3年生が出場できる大会が秋まであります。まだ男女とも2複3単(兼ね無し)の時代でした。教え子からもらった「大会報告書」によると、女子は2回戦から1本も落とさずに、すべて3-0勝利!合計得点が236対102の圧勝!。男子も2回戦こそ1本落とすも、その後は3-0勝利!合計得点が267対108の圧勝でした! これまで何回も追い続けてきた「八冠達成!」を勝ち取りました。「とどろきアリーナ」の前で集合写真を撮りました。達成記念に「スポーツタオル」「優勝記念盾」を制作しました。
先生 誕生日プレゼントありがとうございます💕
平成8年度内市公式大会
八冠完全制覇!
八冠完全制覇!
県総体予選男女団体2冠個人4冠・市総体男女団体2冠
でした!
We shall overcome
We shall overcome
Oh deep in my heart
I do believe
We shall overcome someday
<回想1>I do believe
We shall overcome someday
当時はいろいろなオープン大会が開催されていました。「伊勢原オープン」「愛川オープン」「綾瀬オープン」「相模原オープン」「平塚オープン」…多数ありました。現在も行われている大会もあります。委員長だったこともあり、挨拶を兼ねてそのすべてに参加していました。
市内では川崎市バドミントン協会の主催で「ダブルス大会」が新人戦前に開催されていました。現在の小中学生大会の前身です。全国大会が「1複2単」から「2複1単」に変更されて、ダブルス強化が急がれていました。優勝者には(株)YONEXから黄金のシャトルが提供されました。
目的ある練習と試合経験が実力を向上させます。
<回想2>
自分のチームは全中の年、関東大会は惜しくもベスト8にとどまりましたが、開催地枠で男子シングルス・ダブルスで大会に出場できました。ダブルスが全国一勝をあげました。全国大会の開催地枠は団体1、シングルス2、ダブルス1でした。会議で団体個人は川崎市1位の団体個人、シングルスは県1位も出場と決定していました。
実はこの年にまず「市大会完全制覇」をねらっていました。前年も男子団体・S・D優勝、女子団体準優勝、市総体も男子優勝、女子準優勝していて「4冠優勝」していました。県総体も男子団体個人シングルスが優勝できた年でした。全中の年も市総体男子優勝、女子準優勝で「3冠優勝」でした。県総体は男子団体二連覇することもできました。
大会結果は嬉しくもあり、悔しさも十分にありました。自分が作り上げている大会に、自分の所属選手を出したかった。自分が作った「申込書」を自分で使いたかった。そんな気持ちに満ちあふれていました。夢を追い続ける姿勢を崩さないことが大切です。
そんな姿を後輩が見ていました。よく聞きますが、今年はメンバーが良いので優勝できたとか、今年はお休みなどと…自分はそれが嫌いでした。メンバーの良し悪しではなく、練習の質を上げて選手強化を図ることが大切と考えています。
公立高校ですから転勤はつきものです。長く同じ学校に入れても限度があります。選手の頑張りがあり、中学校始めの選手を主に育成して、複数年在籍した学校すべて(4校)を関東大会に出場させることができました。転勤する年にあたってしまった選手も多く関東大会に出場できました。
さて、全中の次の年1996年は…
<回想3>
まず年の始めに行われた「川崎市新人大会」は男子ダブルス:優勝、女子ダブルス:優勝、男子シングルス:準優勝、女子シングルス:第3位で、まだ「二冠優勝」止まり。
県大会では男子シングルス:第3位、男子ダブルス:準優勝と頑張りました。
その後、敗戦原因を考え、練習で補強し、敗れた選手の所属する学校に毎月のように練習試合をお願いし、川崎ジュニアや県外遠征で強い選手、指導者との対戦を積み重ねました。
<回想4>
そして迎えた県総体市予選になりました。結果は男女団体戦:優勝、男女個人戦シングルス、ダブルス:優勝「六冠優勝!」をみごと成し遂げました。市内大会とは言えど初のことでした。
特筆することは2点あります。決勝での失点の少なさ、ダブルスの充実でした。まだ「サービスオーバー」がある時代でした。その得点は今回教え子が「大会報告書」を大切に保管してくれていて、自分に見せてくれ判明しました。まだデジカメが無い時代でしたが、報告書は毎回発行していました。