何回もチャレンジして抽選で確保できた4月4日の
「カルッツかわさき」強化練習会も新型コロナウイルスのために、中止になりました。とても残念な思いで一杯です。またいつの日かウイルスが収束して、自粛が解除になり思いっきりバドミントンがしたいです。
<始めに>
今回はそんな時期に教え子から貴重な資料をいただいたので、整理しています。今回はこの「川崎ジュニアバドミントンクラブ」できるきっかけになった、今から25年前。
1995年8月20日~24日に日程で、新築の体育館「とどろきアリーナ」で行われた
「第25回全国中学校バドミントン大会」
を振り返ります。まずは動画から…画質が悪いですがどうぞ!2015年に行った
「全中開催20周年記念大会」に際に編集したものです。
【動画:1995年第25回全国中学校バドミントン大会の記録】
Preserve your memories They're all that's left you.
How terribly strange to be seventy
<回想1>
先の講習会でお話ししたように、自分が神奈川県中体連バドミントン部専門部長を務めさせていただいたのは、
1992年(平成4年)~1995年(平成7年)でした。1992年には初の県合宿を開催し、翌年には正月に
「第9回関東合宿」夏に
「第24回関東中学校バドミントン大会」を開催し、1995年全国大会開催後、秋に
「県選抜大会」を新設し、さらに
「県新人戦」を1本のトーナメントにできました。過渡期にあった時期だからこそ、専門部の先生方やメーカーの方、中体連本部役員の方々、そして現場の顧問の理解があっからこそできたものばかりでした。毎回の県専門部会を各ブロックの部長所属校で開催し、お互いの理解を深めていきました。
その中でも一番の思いでは
「全国大会開催」でした。現在使用している、神奈川県総合体育大会の優勝旗は、この大会開催を記念して作成させていただきました。
<回想2>
当時全国大会は全国9ブロック持ち回り制で開催されていました。関東ブロックの8都県で各ブロック2種目開催が義務でした。県中体連事務局の理事長先生から打診があり、バドミントンはどうか?とありました。一瞬考えましたが、
「引き受けます!」と即答しました。こんなチャンスはないと考えたからです。
全国9×関東8=72年に一度のチャンスを逃すことはありません。すぐに準備にあたりました。
<回想3>
自分自身が全国大会に出場したことが無かったので、まず先輩の出場顧問に全国大会はどんな大会なのか、話しを伺いました。
1992年第22回富山高岡大会を1人で視察しました。体育館が円形で大きく、開会式の吹奏楽の演奏の見事さに驚がくしました。当時は会場に熱中症対策として
「氷柱」が何本も置いてありました。持っていったビデオカメラのマイクが不調で、街の電気屋さんに相談したところ、とても丁寧に接していただき修理していただいたことを覚えています。翌年は専門部の役員でワゴン車で
滋賀県大津市まで視察に6名で向かいました。まだ2年前ということもあり、旅行気分ででかけました。夜はいつも麻雀ばかり?してました。
大会はとても整然とした大会でした。
「業務必携」なるマニュアルができていてそれはそれは参考になるものでした。自分の大会時においては、まだインターネット等がなく、パソコンよりもワープロの時代でしたので、作成するのに大変な書類でした。
<回想4>
前年の
1994年は北海道旭川市「大雪アリーナ」というとてつもない大きな体育館でした。冬はスケート場だと聞きました。この年は川崎市の視察団と県専門部の視察団という大がかりなものでした。この大会に自分も出たいと、大会準備と平行して選手強化に頑張りました。幸い県大会で男子団体優勝でき、
「いざ旭川!」と関東大会に乗り込みましたが、埼玉県のチームに敗れてしまい、選手に全国大会を経験させることができませんでした。
<回想5>
1995年になり、自分は職場を離れて4月~10月まで
「県中体連事務局専従」となりました。授業は非常勤の方が代行してくださり、毎日「横浜三ツ沢」の事務局まで通いました。神奈川県開催になった
「体操専門部長」の先生と
「県理事長」との3人で協力してこの難題に取り組みました。
毎日書類作り、挨拶回り、発送、電話連絡…まだメールやラインも無いのでFAXと電話が手段でした。4時に終わって、疲れてはて横浜駅に向かいました。東横線に乗ると自宅方面、横須賀線に乗ると所属中学校方面…
足は自然と横須賀線に向かいました。職員には
「夜の訪問者」と呼ばれていました。生徒の様子を知ることや部活動指導がしたかったです。しかし、5月になると
「事務や挨拶回りに嫌気」がでてきました。もう限界でした。
「普通の教員に戻りたい!」かったです。立ち直るには少し時間がかかりました。2~3日後に同僚から言われた言葉、
「あなたがやらなければ誰がやる!」と言われた事を自分に言い聞かせて、再度準備に取り組みました。持つべきものは仲間です。
その矢先……
<回想6>
この年の7月に
「とどろきアリーナ」が完成予定でした。全国大会の前に「関東中学校バレーボール大会」や国際大会などのオープニングイベントも予定されていました。
完成が間に合わない!と聞いたのが5月下旬でした。慌てました!開催の危機でした。その前にも大きな事件がこの年にはありました。1月には
「阪神淡路大震災」3月には
「地下鉄サリン事件」などがあり、今の新型コロナウイルス感染の状況とは違いますが、社会が揺れ動いていました。
幸い本大会は体育館が間に合い完成し、間に合って開催することができました。よくアリーナまで
「出来るかなあ」と思い、行ったものでした。
<回想7>
これまでの全国大会を参考にして、今大会は大きく5つのことを変えました。
①コートマットを使用する。②大会会場で前日練習を行う。③過去の大会出場記録を掲載する。④アトラクションを開会式前に行う。⑤記念品を作成し、開会式で披露する。
①はアリーナの練習コートにも設置しました。②は初の試みでした。③は全国中体連バドミントン部からの依頼でした。④は高校生にチェアリーディングをお願いしました。⑤は来年度開催県(都市)に大会ポスターの下敷きを渡しました。作成者、設置者に深く感謝します。
大会中、大雨で落雷があり停電してしまい、競技が中断しました。慌てましたがすぐに復旧して決勝戦まで行えました。そんな思い出もあります。自校の選手も出場でき、1勝をあげることもかない、準備に3年もかかったのに楽しく夢のように過ぎ去った4日間でした。
<回想8>
大会終了後、男女団体優勝されたチームから手紙がきました。大変お世話になりましたととても丁寧な内容でした。思い返せばこのチームの選手だけが
「前日会場練習」の時に、
「冷房の風はどこから出ていますか?」と聞いてきました。強いチームは違うな~と感じました。
この大会開催を契機に
「川崎ジュニアバドミントンクラブ」の歴史が始まりました。
出場した川崎市・神奈川県の選手も頑張り、今後につながる大きな経験を得たものと考えています。現在はそのお子さんが本クラブの選手として活躍していることに、意義を感じています。本大会に関係されたすべての方々に感謝の気持ちを表します。
自分もこの大会開催により、教員としてもあり方、人脈作り、事務能力、バドミントン技術知識…を得ました。ありがとうございました!
2015年に
「全中開催20周年記念大会」を開催しました。こんな時期ではありますが、今年中に
「25周年」を記念したイベントを行いたいと考えています。
お読みいただきありがとうございました!by組長